- ■ 名前
円山応挙
- ■ 生年/没年
- 1733年6月12日~1795年8月31日
- ■ 出身地
- 丹波国桑田郡穴太村(現在の京都府亀岡市)
- ■ 作品の特徴
- 応挙の作品といえば第一に挙げられるのが「写生」を重視したその画風です。常に写生帖を持ち歩き、暇を見つけてはスケッチをし、応挙は非常に観察力に優れていました。東京国立博物館蔵に保管されている「写生帖」や現存する「花鳥写生図巻」には、昆虫や植物、動物などが色々な角度から描写されています。こうした写生技術を基礎として磨きつつ、伝統的な日本画の画題を扱って、装飾性あふれる美しい画面を創りあげている点が応挙の特色です。
円山応挙の代表作
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江戸時代に京都で活躍した円山派の始祖円山応挙が描いた「龍門鯉魚図」
「円山応挙」の晩年に描かれた対幅の掛軸画、大乗寺所蔵の「龍門鯉魚図」。龍門とは「登竜門」のことで、成功に至るまでの難関を突破したことをいう諺で鯉の滝登りともいわれる。故事に由来するこのことわざは「山西省の黄河の急流を登りきった鯉は龍になる」という中国の言い伝えから来ている。円山応挙はこれを驚くべき手法で描いた。一見すると何の絵だかよくわかりづらく上から下に落ちる直線で流れる水が描かれている。が、この流れる水の白い直線部分は描いた鯉の上を白で塗ってあるわけではなく何も描かれていない余白なのである。描かないことで流れる水を表現することはすべてを写実的に再現することを得意とする応挙の写実に不忠実で最大の効果を得ている写生画風である。対して水の隙間からのぞく鯉はとても鮮明に描かれ、臨場感溢れる鯉が描かれている。円山応挙の森羅万象の生命感や空気感を自身で感じ情景描写に徹した姿は大きな潮流となり後世の日本画壇を形創る礎となっている。
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日本最大級の掛け軸、円満院の祐常からの依頼で応挙が作成した「大瀑布図」
円山応挙作、日本最大級の掛け軸、約縦4m横1.5mの大瀑布図です。応挙の名前の由来は、「中国 宋の画家 銭舜挙に筆に応ずる」と言われていて、中国に対して、強い影響を受けていました。伝統的な装飾性、立体感、写実性は瞬く間に京都の人々から支持を得て、日本絵画を代表する存在になっていき,豪商三井家や二条吉忠の子、住職の祐常らパトロンがつくほどでした。 大瀑布図は円満院に庭になかった滝を表現したもので、勢いよく流れる迫力が伝わってきます。円満院という天台宗門跡寺院の僧、祐常の依頼を受けた山水画です。依頼の理由は、円満院には庭に滝がなかったので滝の代わりになるものを描いて欲しいということでして、応挙の大瀑布図はまるで本物の滝のような絵になっています。そしてこの絵は庭の枝に掛けられ地面にたらし、実際の滝の代わりとして鑑賞されたと言われています。 この大瀑布図には「付立て」という一筆で陰影や立体感を作り出す技法が使われています。直筆と側筆により、強力く重厚な線と軽くしなやかな線を使い分けており、真っ直ぐ勢いよく流れる水と滝壺でうずまく水、水の流れで削り取られた岩の荒々しい質感を表現されています。
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立身出世の縁起物、優雅に泳ぐ2匹の鯉と透明感のある波紋が織りなす、円山応挙作の「鯉図」
円山応挙は狩野派や花鳥画を学び、対象物を繊細かつ的確にとらえ、見る者にまるで本物がそこにあるかのように感じさせる写生と得意としました。また、上洛後に出会った円満院門主祐常との出会いが大きく応挙を変え、新たに速写に目覚めます。それにより、呉服商の三井家など裕福なパトロンに支えられる中「七難七福図」や「孔雀牡丹図」、「雪松図」などの多くの作品を生み出しました。『鯉図』はそんな中で作られた作品の一つとなります。 ゆったりと鯉が泳ぐ姿を鑑賞することは、とても優美なことでした。また鯉は立身出世の縁起物と言われ多くの人々から好まれました。 雲から落ちた雨や雪が地上に降り注ぎ、川や海、湖へと形を変える水。応挙の水の表現は、他の日本画家には真似できない技術と魅力がありました。鯉が動くことによっておだやかな水面が揺らめき、そのさざ波が透明感と立体感を感じさせます。美しい鯉の姿がさざ波の輪郭と重なって水面があるように感じさせ、二匹の鯉が奥行を出しています。鯉が目の前で本当に泳いでいるかのような様が、見事に表現されています。
円山応挙の生涯
丹波国桑田郡穴太村(現:京都府亀岡市)の農家に生まれた応挙。
幼少期の詳しいことは分かっていませんが、十代には京へ出て、鶴沢派の画家である石田幽汀の門に入ったとされています。京都の玩具商に勤めていた二十代の修行の時には「眼鏡絵」の制作に携わっていたとされており、「石山寺図」や「円山座敷図」、「四条河原遊涼図」、「賀茂競馬図」、「三十三間堂図」といった京都風景の眼鏡絵を制作していました。(眼鏡絵とは:西洋画の遠近法を応用したもので、”のぞき眼鏡”といった凸レンズをはめた箱を介すると絵が立体的に見えるといったもの)。
実は応挙という名は1766年に名乗り始めた名前で、中国の大家に劣らない作品を描くという意味が込められたそうです。応挙の晩年の作品に当たる「四季遊戯図巻」などは肉筆浮世絵と同等の物ではないものの、浮世絵の雰囲気も持つ作品として挙げることができます。円山派は長男である応瑞が継ぎましたが、駒井源琦や山跡鶴嶺、西村楠亭などの応挙の弟子の方が有名です。
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「写生派の祖」として多くの人々にその名を刻んだ円山応挙。代表する雪松図屏風はもちろんのこと、数々の日本画や掛軸、古書を残している応挙の作品は、骨董品として非常に高価格で取引されております。まだ世に知られていない作品があるとされている応挙の作品。真作なら高値がつくと予想されます。心当たりがありましたら鑑定や査定に出して、価値を見てみるのもいいのではないでしょうか。
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