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- 2025.09.20
賤ヶ岳七本槍とは?英雄たちの栄光とその後を解説《骨董品の価値》

賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)。この名を聞いて、歴史の教科書に登場した勇ましい武将たちの姿を思い浮かべる方も多いでしょう。
彼らは、豊臣秀吉がまだ羽柴秀吉と名乗っていた時代、天下取りの大きな転換点となった戦で、目覚ましい活躍を見せた7人の若武者たちです。
しかし、彼らが具体的にどのような戦いで手柄を立て、なぜ「七本槍」として称えられるようになったのか、そして英雄となった彼らがその後どのような人生を歩んだのか、詳しいところまで知る人は意外に少ないかもしれません。
ある者は大名として栄華を極め、ある者は時代の波にのまれていきました。その運命は、決して一様ではありませんでした。
この記事では、賤ヶ岳七本槍の各メンバーの個性的な人物像から、伝説が生まれた「賤ヶ岳の戦い」の全貌、そして彼らの栄光と凋落の物語を深く掘り下げていきます。
さらに、彼らが生きた時代の息吹を今に伝える刀剣や書状といった品々は、現代においてどのような価値を持つのかについても解説いたします。
賤ヶ岳の戦いとは?七本槍が誕生した歴史的背景

「賤ヶ岳七本槍」という勇ましい呼称は、日本の歴史を大きく動かした「賤ヶ岳の戦い」に由来します。
この戦いは、織田信長亡き後の天下の覇権をめぐる、羽柴秀吉と柴田勝家の直接対決でした。まさに、信長の後継者を決める天下分け目の戦いといえるでしょう。
ここでは、なぜこの戦いが起こったのか、そして数多の武功が挙げられたなかでなぜ7人の若武者が「七本槍」として特別に顕彰され、後世にまでその名を轟かせることになったのか。その歴史的背景からお伝えします。
本能寺の変後の混乱と清洲会議での対立
すべての発端は、天正10年(1582年)6月2日に起こった「本能寺の変」です。
天下統一を目前にした織田信長が、家臣の明智光秀に討たれるという衝撃的な事件により、織田政権は絶対的な支配者を失い、大きな混乱に陥りました。
この混乱をいち早く収拾したのは当時、備中高松城で毛利氏と対峙していた羽柴秀吉でした。主君信長の死を知るや、驚異的な速さで軍を京へ引き返し、山崎の戦いで明智光秀を討ち取ります。
これにより、秀吉は織田家家臣団の中で、信長の弔い合戦を成し遂げた第一人者としての地位を確立しました。
その後、織田家の後継者と領地の再配分を決めるために、尾張国の清洲城で重臣たちによる会議、いわゆる「清洲会議」が開かれます。
ここで、筆頭家老の柴田勝家は信長の三男・織田信孝を後継者に推したのです。
一方、秀吉は信長の嫡孫である三法師(後の織田秀信)を推挙します。結果として、秀吉の意見が通り、幼い三法師が後継者と定められました。
この決定により、織田家における主導権を握ろうとした勝家と、着実に実権を掌握していく秀吉との対立は、もはや避けられないものとなっていきます。
秀吉軍の圧勝に!賤ヶ岳の戦いの経過と勝因
清洲会議後、両者の対立は激化し、ついに天正11年(1583年)、両軍は近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市)の賤ヶ岳周辺で対峙します。「賤ヶ岳の戦い」の始まりです。
布陣は、柴田勝家軍が約3万、対する羽柴秀吉軍が約5万と、兵力では秀吉が優位に立っていました。しかし、戦線は膠着状態に陥ります。
この状況を打破するため、秀吉は一計を案じました。岐阜城の織田信孝が挙兵したという報せを受け、秀吉は意図的に賤ヶ岳の主力を率いて岐阜へ向かったのです。
これを見た勝家軍の猛将・佐久間盛政は好機と捉え、手薄になった秀吉軍の砦に猛攻撃をかけ、中川清秀を討ち取るなど大きな戦果を挙げます。
しかし、これが運命の分かれ道。盛政の突出を知った秀吉は、岐阜の大垣から賤ヶ岳まで約52kmの道のりを、わずか5時間ほどで駆け戻るという強行軍を敢行します。
これは「美濃大返し」と呼ばれ、日本の戦史に残る電撃的な軍事行動でした。
味方が苦戦しているまさにそのとき、突如として戦場に舞い戻った秀吉本隊の出現に、勝家軍は完全に不意を突かれ、総崩れとなります。
追撃戦の最中、秀吉子飼いの若武者たちが先陣を切って敵陣に突入し、次々と敵将を討ち取るという獅子奮迅の活躍を見せました。
このとき、一番槍の功名を挙げた9人の若武者のうち、とくに功績が大きかった7人が、秀吉自らによって賞賛され、「賤ヶ岳七本槍」としてその武名を天下に知らしめることになったのです。
彼らの活躍は、秀吉軍の圧勝を決定づけ、秀吉が天下人への道を突き進む大きな原動力となりました。
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勢ぞろい!賤ヶ岳七本槍のメンバー一覧とその武功

賤ヶ岳の戦いで歴史に名を刻んだ7人の英雄たち。それが「賤ヶ岳七本槍」です。この呼称は、彼らの武勇を称える最高の栄誉となりました。
ここからは、福島正則や加藤清正といったとくに有名な武将はもちろんのこと、ほかの5人のメンバーも含めた全員のプロフィールをご紹介。
彼らが賤ヶ岳で挙げた具体的な武功、そしてその後の人生を見ていきましょう。
福島正則(ふくしま まさのり)
七本槍の筆頭格として、その名を第一に挙げられるのが福島正則です。
彼の母は秀吉の叔母にあたり、幼い頃から秀吉に仕えた子飼いの武将でした。その性格は豪放磊落、酒をこよなく愛し、数々の武勇伝を残した典型的な猛将として知られています。
賤ヶ岳の戦いでは、まさに一番槍の功名を果たしました。
秀吉の「美濃大返し」によって混乱に陥った柴田軍を追撃するなか、敵将「拝郷家嘉(はいごう いえよし)」に一騎打ちを挑み、激戦の末にこれを討ち取るという大金星を挙げます。
この功績により、秀吉から5,000石の加増を受け、七本槍の中でも最高の評価を得たのです。
その後も各地の戦で武功を重ね、秀吉の天下統一に貢献。最終的には安芸広島49万8,000石の大名にまで上り詰めました。
しかし、豊臣家への恩義と徳川家康への配慮との間で揺れ動きます。
関ヶ原の戦いでは東軍の先鋒として活躍したものの、江戸時代に入ると、幕府の許可なく居城である広島城を修築したことを咎められ、改易(領地没収)。
信濃国高井野藩2万石に減封され、不遇の晩年を送りました。
加藤清正(かとう きよまさ)
福島正則と並び、賤ヶ岳七本槍の中で知名度の高い武将といえば加藤清正です。彼もまた、母が秀吉の遠縁であったことから、古くから秀吉に仕えていました。
賤ヶ岳の戦いでは、敵将・山路正国(やまじ まさくに)を討ち取るという功績を挙げています。この手柄により、3,000石の加増を受けました。
清正の武勇は賤ヶ岳に留まらず、朝鮮出兵の際には敵国の王子を捕虜にしたり、虎を退治したりといった逸話が数多く残されており、「鬼将軍」として恐れられました。
一方で、清正は築城の名手としてもその才能を発揮。とくに彼が築いた熊本城は、難攻不落の名城として名高く、その石垣「清正流石垣」は現在でも高い評価を受けています。
彼は生涯にわたって豊臣家への忠義を貫き、秀吉の死後は、幼い秀頼の後見人として豊臣家を支え続けました。徳川家康からもその実力を高く評価され、一目置かれる存在でしたが、家康と秀頼の会見を取り持った直後に病没。
その死には、毒殺説も囁かれています。
加藤嘉明(かとう よしあき)
賤ヶ岳七本槍には、「加藤」姓の武将が2人います。そのもう1人が加藤嘉明です。三河国(現在の愛知県)の出身で、清正と同じく幼少期から秀吉に仕えました。
賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家の甥である柴田勝政の軍を追撃し、その家臣を討ち取る功績を挙げました。
この活躍を秀吉は高く評価し、彼の槍を指して「此れぞ我が家の宝槍なり」と賞賛したと伝えられています。この言葉は、嘉明にとって生涯の誇りとなりました。
嘉明の真価は、陸戦だけでなく水軍の将としても発揮されました。小田原征伐や朝鮮出兵では、秀吉の水軍を率いて活躍し、その名を高めます。
関ヶ原の戦いでは、いち早く徳川家康支持を表明し、東軍として参戦。その功績により、伊予松山20万石の大名となります。
その後、さらに加増され、最終的には会津40万石の藩主となり、七本槍の中では最も大きな領地を得るに至りました。
脇坂安治(わきざか やすはる)
もとは織田信長の重臣・明智光秀の配下であったという、七本槍の中では異色の経歴を持つのが脇坂安治です。本能寺の変の後、秀吉に仕えるようになりました。
賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝政の家臣を討ち取るという武功を挙げています。戦後、秀吉からその働きを認められ、3,000石を与えられました。
加藤嘉明と同様に、安治も水軍の将として頭角を現し、淡路国洲本3万石を与えられ、瀬戸内海の制海権を担う重要な役割を果たしました。
彼の名を一躍有名にしたのは、天下分け目の関ヶ原の戦いでの行動です。当初、安治は石田三成方の西軍として布陣していました。
しかし、戦の趨勢が東軍有利と見るや、小早川秀秋の裏切りに呼応して突如東軍に寝返り、西軍の大谷吉継隊に攻めかかりました。この寝返りが西軍の総崩れを決定づけた一因とされています。
この判断により、戦後も所領を安堵され、江戸時代も大名として家名を存続させることに成功しました。
平野長泰(ひらの ながやす)
賤ヶ岳七本槍の多くが戦功を重ねて大名へと出世していく中、生涯を旗本として過ごした人物が平野長泰です。尾張国の出身で、早くから秀吉に仕えていました。
賤ヶ岳の戦いでは、敵の首級を挙げる功績を立て、3,000石(後に5,000石)の所領を与えられました。
しかし、彼はその後、ほかのメンバーのように大きな加増を受けることはなく、大名になることもありませんでした。
これには、彼自身が大きな領地を持つことを望まず、徳川の世になっても将軍の直臣である旗本として仕える道を選んだという説があります。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、江戸幕府成立後も徳川秀忠に仕えました。彼の家は、大和国田原本に陣屋を構える5,000石の交代寄合(参勤交代を行う旗本)として、明治維新まで存続。
派手さはないものの、激動の時代を堅実に生き抜き、家名を後世に伝えた人物といえるでしょう。
糟屋武則(かすや たけのり)
播磨国(現在の兵庫県)の有力な一族、糟屋氏の出身である糟屋武則も、七本槍の1人に数えられます。もとは三木城主・別所氏の家臣でしたが、秀吉の播磨平定後にその家臣となりました。
賤ヶ岳の戦いでは、柴田軍の猛将・宿屋飯盛(しゅくや いいもり)を討ち取るという輝かしい武功を挙げ、3,000石の加増を受けました。
その後も順調に出世を重ね、播磨国加古川に1万2,000石の領地を持つ大名となります。
しかし、彼の運命は関ヶ原の戦いで暗転します。武則は、石田三成との個人的な関係から西軍に与しました。伏見城攻めなどで奮戦するものの、西軍は敗北。
戦後、徳川家康によって領地はすべて没収されてしまいました。
七本槍の中で、関ヶ原の敗戦により改易されたのは彼のみであり、その後の人生は不遇であったと伝えられています。
一説には、福島正則や加藤清正らの口添えで、わずかながら扶持を与えられていたとも。
片桐且元(かたぎり かつもと)
七本槍の中で、武人としてよりも、むしろ政治家・官僚として後世に名を残したのが片桐且元です。近江国の出身で、早くから秀吉に仕え、その才能を認められていました。
賤ヶ岳の戦いでは、一番乗りの功名を挙げ、3,000石を与えられています。
しかし、片桐の真価が発揮されたのは、戦場よりも政の舞台でした。算術や行政能力に長けていた且元は、秀吉の側近として豊臣政権の官僚組織(奉行)で重用されます。
秀吉の死後は、その遺言により豊臣秀頼の傅役(もりやく)という重要な役目に就きました。
また、豊臣家の存続のために徳川家康との難しい交渉役も務めます。
しかし、有名な「方広寺鐘銘事件」において、家康の意図を正確に豊臣方に伝えられなかったことから、豊臣家内部で裏切り者との疑いをかけられてしまいます。
最終的に大坂城を退去せざるを得なくなり、これが豊臣家と徳川家の決裂を決定的にし、大坂の陣へとつながる引き金のひとつになったとも。
彼の立場は、豊臣家への忠誠と、時代の流れを読んだ現実主義との間で板挟みになる、非常に複雑で悲劇的なものでした。
賤ヶ岳七本槍は過大評価?その後の栄光と凋落

「賤ヶ岳七本槍」という名称は、勇ましく、輝かしい響きを持っています。しかし歴史を深く見ると、この呼称が秀吉による巧みなプロパガンダの一環であったという説も存在します。
賤ヶ岳の戦いで手柄を立てたのは、もちろん彼らだけではありませんでした。
石川兵助や桜井家一といった、七本槍に匹敵する功績を挙げながらも、一番槍の栄誉から漏れてしまった武将もいたのです。
秀吉は、自身が育てた子飼いの若武者たちの活躍を大々的にアピールすることで、自軍の士気を高め、自身の求心力を内外に示しました。
七本槍というブランドを得た彼らは、その後どのような運命を辿ったのでしょうか。その栄光の裏にあった苦悩や凋落にも光を当ててみましょう。
豊臣恩顧の大名としての栄達と苦悩
賤ヶ岳の戦いで得た武功を足がかりに、七本槍の多くは豊臣政権下で順調に出世し、大名としての地位を築き上げました。彼らは秀吉個人への強い恩義を感じており、豊臣家の忠実な家臣として各地の戦で活躍しました。
しかし、天下が統一され、戦乱の世が終わりを告げると、政権内部で新たな対立構造が生まれます。
これが、福島正則や加藤清正に代表される戦場で手柄を立てて出世した「武断派」と、石田三成や小西行長に代表される、行政実務能力で政権を支えた「文治派」の対立です。
武断派の武将たちは、戦場での働きこそが最も重要だと考える一方、文治派の官僚たちは、法や計算に基づいた合理的な統治を目指しました。
両者の価値観は相容れず、とくに対朝鮮政策などを巡って、その溝は深まるばかりでした。この根深い対立は、秀吉の死後、豊臣家を二分する大きな要因となり、彼らの運命を大きく左右することになります。
関ヶ原、そして江戸時代へ!それぞれの末路
秀吉の死後、豊臣政権内の対立はついに表面化します。徳川家康と石田三成、それぞれ天下の覇権をかけて激突したのが慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」です。
ここで、歴史の皮肉が起こります。
福島正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰といった七本槍のメンバーの多くは、豊臣家恩顧の大名でありながら、石田三成への強い憎しみから徳川家康率いる東軍に味方したのです。
彼らは東軍の主力として奮戦し、関ヶ原の勝利に大きく貢献しました。その結果、江戸幕府が成立した後も、多くは所領を安堵されたり、あるいは加増されたりしました。
しかし、その栄光は長くは続きませんでした。幕府にとって、彼らはあくまで「豊臣恩顧の大名」。
潜在的な脅威と見なされることも少なくありませんでした。その象徴的な出来事が七本槍筆頭の福島正則の改易でしょう。福島正則は幕府に無断で城を修復したという、些細ともいえる理由で、50万石近い領地を没収されてしまいました。
これは、徳川幕府による豊臣恩顧の大名への厳しい姿勢を示す見せしめであったともいわれています。
こうして、戦国の世を駆け抜け一時代を築いた英雄たちは、徳川による新たな時代の到来とともに、歴史の表舞台から静かに姿を消していったのです。
賤ヶ岳七本槍ゆかりの品々の価値と買取

これまで解説してきた賤ヶ岳七本槍の武将たち。彼らが生きた激動の時代は、数多くの歴史的な品々を現代に残しています。
武将が実際に用いたとされる刀剣や甲冑、彼らの息遣いが感じられる自筆の書状などは、骨董品として大きな価値を秘めている可能性も。
ご自宅の蔵や押し入れに、先祖代々伝わる古い武具や巻物が眠っていたら、査定へ出してみることをオススメします。
刀剣・甲冑・武具の価値と査定ポイント
武士の魂ともいわれる刀剣や、戦場で命を守った甲冑、槍や火縄銃といった武具は、骨董品市場でも人気の高いジャンルです。
その価値を決定づける最大の要素は、「誰が所持・使用していたか」という来歴です。たとえば、「加藤清正所用」といった明確な伝来が証明されれば、その価値は計り知れないものになります。
もちろん、伝来が不明な場合でも価値がなくなるわけではありません。以下の点が重要な査定ポイントとなります。
✔ 作者
刀であれば刀工、甲冑であれば甲冑師の名がわかっているか。著名な職人の作品であれば高額査定が期待できます。
✔ 時代
作られた年代が古いほど、希少価値は高まる傾向に。
✔ 保存状態
錆や傷、虫食いなどが少なく、作られた当時の状態に近いほど評価は高くなります。
✔ 装飾・造形
拵(こしらえ)や兜の装飾、全体の造形美なども査定に大きく影響します。
こうした専門的な査定は、確かな知識と経験を持つプロでなければ困難です。
福ちゃんには、刀剣や甲冑を専門とする査定士が在籍しており、そのお品物が持つ歴史的・美術的価値を正確に見極めます。
古文書・書状(花押)の価値と見方
武将が記した手紙(書状)や、公式な文書に記されたサイン代わりの「花押(かおう)」も、非常に価値のある骨董品です。
これらの価値は、主に2つの軸で評価されます。1つは「内容の歴史的価値」。戦の様子や当時の政治状況がわかるような内容であれば、歴史資料としての価値が非常に高くなります。
もう1つは「誰の直筆であるか」という希少価値です。福島正則や加藤清正といった著名な武将の直筆書状や花押は、それだけで高値で取引される可能性も。
しかし、古文書の価値判断は極めて専門的です。
くずし字で書かれた文章を読み解き、紙質や墨の色から時代を特定し、筆跡鑑定によって真贋を見極める必要があります。素人目には、価値があるのかどうか判断するのはほとんど不可能だとされます。
一見するとただの古い紙切れに見えても、専門家が読み解くことで、歴史的な大発見に繋がることもあります。
価値がわからない、読めないとお感じの古文書や書状こそ、ぜひ一度福ちゃんにご相談ください。
まとめ
賤ヶ岳の戦いをきっかけに歴史の表舞台に躍り出て、豊臣秀吉の天下取りを支えた7人の若武者「賤ヶ岳七本槍」。一番槍の功名を立てた彼らの武勇伝は、後世にまで語り継がれ、多くのファンが存在します。
しかし、その生涯は栄光だけではありませんでした。
豊臣政権内での対立、関ヶ原の戦いでの苦渋の決断、そして徳川の世における凋落。彼らが駆け抜けた激動の時代は、まさに戦国乱世の終焉と、新たな時代の幕開けを象徴しています。
彼らの勇壮な生き様は、物語としてだけでなく、彼らが実際に手にしたであろう刀剣や甲冑、思いを綴った書状といった「モノ」を通じて現代の私たちに力強く語りかけてきます。
歴史上の人物に思いを馳せながら、ご自身のまわりにある古い品に、改めて目を向けてみてはいかがでしょうか。そこには、思いもよらない歴史のロマンと価値が眠っているかもしれません。
買取福ちゃんでは、賤ヶ岳七本槍ゆかりの品々をはじめ、刀剣・甲冑・古文書・武具など、あらゆる骨董品の買取を強化しております。
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