着物作家・松原定吉とは?
着物を高く買い取ってもらう方法とは?
松原定吉とはどんな着物作家?
1893年、松原定吉は富山県に生まれました。
生家は小さな豆腐屋を営んでおり、兄弟が多かったため全員を養っていくことは難しく、末っ子の定吉は12歳のときに上京することを余儀なくされます。
上京して奉公先として向かった先は、東京・日本橋の型紙を使った染織を行う中形の板場でした。
そこで型付師になるべく修行を始めた定吉は、のちに亀戸にある竹中竹次のもとに移って型付師になるためのさらなる修行を重ね、努力の甲斐があって1915年に独立します。
独立後の定吉は、白い生地に模様を染めていく「地白中形」の技術をきわめるべく、試行錯誤を重ねます。
そして、工房に「型付け」を行うための設備に加えて染料を溜めておく藍甕を設置し、「染め」までをも一貫して行うという方法論を確立し、1955年には人間国宝に認定されています。
当時の着物づくりは分業制が基本で、型付けを担当する型付師が自前の藍甕を持つことは一般的ではありませんでした。
たとえば、松原定吉と同じく1955年に「長板中形」の人間国宝に認定された清水幸太郎は、「型付け」のみを行う型付師であり、「染め」は行っていませんでした。 そのようなこともあって定吉は批判を受けることもあったようですが、たゆむことなく努力を重ねて事業を進め、さらには藍色の染料づくりにも積極的に取り組み、ついに人間国宝に認定されるまでになったのでした。
しかし、定吉は人間国宝認定と同じ年の12月30日、脳出血で死去。享年62歳でした。
これからというときに惜しくも亡くなった定吉でしたが、その子たちのうち優れた技術を持つ4人が「松原四兄弟」と呼ばれて優れた作品を多く世に送り出している他、2023年現在は定吉の孫にあたる世代の松原伸生をはじめとする作家たちが、「長板中形」を使った作品を制作しています。
ちなみに、松原伸生は2017年に千葉県指定無形文化財「長板中形」保持者に認定されています。
松原定吉の「長板中形」とは?
もともと「長板中形」は古来の染織技法のひとつで、型紙を当てた反物の両面に糊置きをして防染したうえで染料にひたし、模様を染めるというものです。
「長板」の語源は、反物を長い板(約6.5m)に張りつけること。また「中形」は、染められる模様の大きさが小紋(小形)よりも大きく、大紋(大形)よりも小さい中くらいのものであることから、そのように呼ばれています。
松原定吉は、そんな「長板中形」の技法に習熟しただけでなく、「染め」までをも独自に行うところに独自性がありました。
これは、出来上がりに不具合があったとき、「型付け」が悪かったのか「染め」が悪かったのか責任の所在がはっきりしなくなってしまうことを防ぎ、より着物の完成度を高めたいという思いがあったからだといわれています。
松原定吉の作品紹介
長板中形の技法に優れ、「型付け」から「染め」までを一手に担って完成度の高い作品を世に送り出した松原定吉。
ここでは、そんな定吉の作品を紹介します。
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長板中形地白正藍染「牡丹に鳳凰」
松原定吉が得意とした「白地中形」の技法を使い、楚々とした牡丹の花と、華麗に舞うような鳳凰の姿を染めつけた作品に仕上げました。
定吉が死去する1955年、第2回日本伝統工芸展に出品されています。 -
長板中形地白正藍染「松にうら梅」
こちらも、同じく1995年の第2回日本伝統工芸展に出品されている作品です。
おめでたい印象の「松」と、美しい「うら梅」を、繊細かつ端正に表現している傑作となっています。
松原定吉の着物買取は
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松原定吉は、前述のとおり努力を重ねて「長板中形」の技術を確立。
人間国宝に認定されたその年、惜しくも死去しました。それが1955年のことで、現在すでに約70年が経過しています。
そのこともあり、現存する作品そのものがそれほど多くなく、中古市場に出ることはまれです。 現在、いわゆる「松原四兄弟」と呼ばれる定吉の息子たち(福与、利男、八光、与七)の着物はよく出ますが、定吉の作品はあまり出回っていません。
というわけで、希少性が高いということもあり、松原定吉の作品は状態にもよりますがいずれも高い買取額が期待できます。
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