着物作家・与那嶺貞とは?
着物を高く買い取ってもらう方法とは?
与那嶺貞とはどんな着物作家?
1909年、与那嶺貞は沖縄県読谷村に生まれました。
首里女子実業学校に進んで染織を学んだあと、読谷村に戻って女子補修学校の教師としてつとめるかたわら、学んだ技術を活かして織物の制作に取り組みます。
そんな与那嶺貞の人生が大きく変わったのは1964年のことでした。
このとき、与那嶺貞は読谷村の生活改良普及員をつとめていましたが、村長から「読谷山花織」の復興に取り組んでくれないかとの依頼を受けます。
かつて琉球王国の王族が身に着けていた「読谷山花織」はその当時、王国がすでに消滅していることもあって、技術自体が失われようとしていました。
与那嶺貞は、「読谷山花織」の記憶をとどめている古老に話を聞いたり、残された古い衣装などをもとに研究を重ね、1965年に復興することに成功します。
その後は、自身で作品を制作するかたわら後進の育成にも尽力。1975年には沖縄県指定無形文化財保持者に認定されました。1995年には、「読谷山花織」を復興した功績がたたえられて第15回伝統文化ポーラ賞において特賞を授賞しています。
さらに1999年、国の重要無形文化財「読谷山花織」保持者(人間国宝)に認定されました。
与那嶺貞は、人間国宝に認定された4年後の2003年に亡くなりましたが、その技術は後世の作家たちに受け継がれ、現在でも「読谷山花織」の作品は多く生み出されています。
与那嶺貞の「読谷山花織」とは?
そもそも「読谷山花織」の歴史は古く、14~15世紀にさかのぼります。
当時の沖縄は琉球王国と呼ばれており、アジア各国との交易を通じて独自の文化を形成していました。
そんな中で生み出されたのが、沖縄本島の中部に位置する読谷村の一帯で作られた「読谷山花織」です。
濃紺で染めた木綿の生地に白、赤など色彩豊かな色糸を使って模様を織り出す美しい織物で、当時は琉球王国の王族や読谷村の人々しか身に着けることを許されていませんでした。
しかし、明治に入って廃藩置県によって琉球王国が滅ぶと、徐々にその文化は失われ、「読谷山花織」もまた失われつつありました……。
すでに紹介したように、与那嶺貞は失われつつある「読谷山花織」を復興したいとの依頼を受け、研究の結果、見事に現代によみがえらせることに成功します。
また与那嶺貞は、従来の木綿ではなく絹地を使い、さらなる進化ももたらしました。
絹地を使った与那嶺貞ならではの読谷山花織の作品としては、現在は文化庁に所蔵されている「絹紺地経縞に緯絣緯浮ジンバナ文様花織着尺」などが挙げられます。
与那嶺貞の作品紹介
ここでは、与那嶺貞が手がけた「読谷山花織」の作品のうち、特に代表的なものを紹介します。
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絹紺地経縞に緯絣緯浮
ジンバナ文様花織着尺文化庁に所蔵されている作品で、着物に仕立てるための反物です。
落ち着いた風合いのある紺の絹地に、茶や白の糸を使って「ジンバナ(銭花)」と呼ばれる文様を浮かせて織り上げた作品となっています。
ちなみに、ジンバナは“お金”をかたどった文様で、裕福な暮らしを願う気持ちが込められています。 -
木綿紺地格子に経緯絣
カジマヤー文様花織帯地こちらは伝統的な木綿地の作品で、帯に仕立てるための帯地となっています。
紺の生地に赤や白の糸を使い、「カジマヤー(風車)」の文様を織り出している作品です。カジマヤー文様は、沖縄では「長寿」を意味する文様です。
なお、こちらも現在は文化庁に所蔵されています。
与那嶺貞の着物買取は
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与那嶺貞は、滅びつつあった「読谷山花織」の復興に成功するという功績を残し、また多くの優れた作品を世に送り出しています。
彼女の作品はいずれも高い価値を誇り、状態にもよりますが1着につき数万円の値がつくことが珍しくありません。
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